めもめも ...〆(。_。)
認知心理学・認知神経科学とかいろいろなはなし。 あるいは科学と空想科学の狭間で微睡む。
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ちょっと義理と金欠と他いろいろのために他大学で下働きすることにした。
今日がファーストコンタクト。
・・・覚悟はしていたが、やはりカルチャーショックはあった。
PCつかう講義なんですが、飲食禁止のPC室でガムかむ子がいるとか、まあ眉をひそめるような事態はある程度予想済み。
まさか課題そっちのけでネトゲする学生がいるとは思わなかった。
ネトゲしてて「課題何したらいいのかわからんー」ってそりゃわかるわけねー。
そしてそういう学生をこっちが叱っていいのか判断つかねー。
上の先生が叱らないならわたしが差し出がましい真似をするわけにもいかん・・・のか?
いったいどうしたらいいんだ。
そうかそういう時代を生き延びていかねばならんのか。
「大学」がもはや「高等教育機関」ではない、とはこういうことをさすのか。
そしてこの状況に対する最適解がわからない。
たぶんそういう「勉強」をしろ、という含みでこの仕事の話がきたんだろうなあ。
違うかもしらんけど。
講義を担当される先生は、わたしの出身大学の大先輩?らしい。
まあ世代が離れまくっているので接点がほんのぽっちりとしかないというかむしろ接点があったのが奇跡だよ。
「われわれが受けてきた“自由な教育”を彼らにも受けさせたい」という理想と熱意を掲げていらっしゃる先生だった。
だけどなかなかうまいこといかなくてねえ、という先生の話がせつなかった。
それでも、大学でほんの少しでも、“自由な教育”を感じてもらえたらいい。
そう思って先生は講義されているらしい。
もしその“自由な教育”の橋渡しの助けをわたしができるとしたら、それはすばらしいことだと思う。
先生が「われわれの受けてきた教育」と言及した、出身大学で受けた教育を、実はわたしは結構誇りに思っている。
自分の研究を行う上での根幹を成していると思っている。
まあ、世界的にすごい研究者をぼろぼろ輩出するようなすごいところではないのだけれど、“自由に学ぶ”ことは徹底されていた。
“自由に学ぶ”ための必要な基礎知識はしっかり叩き込まれたし、3回生からは本当に“自由に”自分の研究(といってもぐだぐだだったけど)をさせてもらえた。
今になって先生らの内情を聞いてみれば、自由にならないこともいっぱいあったそうだし、設備などはすごい研究室に比べたら全然整っていなかった(PCも足りてなかったし)けど、それでも“自由に学ぶ”ことに制限はなかった。
「自由の学風」っていうと某大が有名ですが、あっちは学生のフリーダムっぷりのほうに焦点あるもんなー。
わたしのいたところはちっさいところだけれど、それでも学問としての“自由”があった。
専門分野がぜんぜん違う同期どうしで、おさけのみながらいろんな議論したりとか、ぜんぜん違う講義にもぐりこんでいろんな議論したりとか。
卒論とか思い返してみても、本当にテーマがばらっばらで先生方には結構負担だったんじゃないかなーと思う。
ほとんど先生の専門分野なんて考えてなかったんじゃないかな。
でも、研究をするためのツール(統計とかプログラミング基礎とか論文の書き方とか論理的思考とか)は共通だし、そこんとこをフォローしてもらいつつも、学生も先生もありったけの知識と思考で議論し合えてたから、みんな研究テーマがばらばらでも気にしなかったんだと思う。
てゆーか、そこを出るまで、先生や先輩の専門分野を参考にして自分のテーマを決めるとか、先生や先輩にテーマを決めてもらうという考え自体がなかった。
まあ世の中を知らなかっただけなんだけど。
それはともかく、「研究」というものに初めて出会ったときの方法論が“自由な教育”であったことはわたしの幸せだと思う。
あの薫陶があったからこそ、研究の道に進もうと思えるわけだし。
(そういう意味では道を踏み外した要因だとも言える・・・orz)
たぶん先生も、わたしが思うように“自由な教育”を誇りに思われてていて、だからこそ自分が担当する学生に少しでもそれを感じて欲しいと思っていらっしゃるのだろう。
とはいえ、このご時世でそんな“自由な教育”が成立するのかどうかはちょっとわからん。
わたしのいたところも解体してるし。
今“自由”っていったら、完全放任みたいにとられかねないからなー。
“自由”にするためには、その前段階をきっちり仕込まれておかねば、「何をしていいかわからない」状態にしかならないのに。
そもそも学生の自由に任せる、という方法自体が「古い」のかもしれない。
下手したら、わたしたちの世代が“自由な教育”を享受できた最後の世代かもしれない(勿論、そうでないほうがよいことだと思うが)。
いやでも、ここで「わたしたち」が匙を投げたら、自分たちが誇りに思う“自由な教育”は失われてしまうかもしれない。
そんな危惧があるから、学生が講義中にネトゲしようと、先生は“自由な教育”をしようと手を尽くされるのだろう。
あーそんなこと考えたら下働きしっかりやらなあかん気になってしまうなー。時給安いのに。
金欠ばかりは理想ではどうしようにもねえ。
世知辛いですのう。
あーどうでもいいけどおまけにつられて某紅茶風ペットボトル飲料の果物フレーバー買って飲んでみた。
甘い甘すぎる。紅茶の味しねえ。
こういうときは、自分でいれた紅茶に飲料をまぜて香り&甘みづけに使う。
お砂糖と違って溶け残りがない、いわばガムシロップ的な何かだと思えばいいのですよ。
まあたまにはアレンジティーもありってことで。
気合いれたアレンジティーはちゃんとした果物スライスとか使うけどね。いやまあもったいないからアレンジティーしないのですよ。
だって果物は紅茶に入れる前に食べちゃうし。
あー葡萄とかもっと食べたいのにもうおみかんの季節だなあ。
みかん紅茶ってあるのかなあ。
なくてもいいけどみかんに合う紅茶ってあるかなあ。
どうだろう。
今日がファーストコンタクト。
・・・覚悟はしていたが、やはりカルチャーショックはあった。
PCつかう講義なんですが、飲食禁止のPC室でガムかむ子がいるとか、まあ眉をひそめるような事態はある程度予想済み。
まさか課題そっちのけでネトゲする学生がいるとは思わなかった。
ネトゲしてて「課題何したらいいのかわからんー」ってそりゃわかるわけねー。
そしてそういう学生をこっちが叱っていいのか判断つかねー。
上の先生が叱らないならわたしが差し出がましい真似をするわけにもいかん・・・のか?
いったいどうしたらいいんだ。
そうかそういう時代を生き延びていかねばならんのか。
「大学」がもはや「高等教育機関」ではない、とはこういうことをさすのか。
そしてこの状況に対する最適解がわからない。
たぶんそういう「勉強」をしろ、という含みでこの仕事の話がきたんだろうなあ。
違うかもしらんけど。
講義を担当される先生は、わたしの出身大学の大先輩?らしい。
まあ世代が離れまくっているので接点がほんのぽっちりとしかないというかむしろ接点があったのが奇跡だよ。
「われわれが受けてきた“自由な教育”を彼らにも受けさせたい」という理想と熱意を掲げていらっしゃる先生だった。
だけどなかなかうまいこといかなくてねえ、という先生の話がせつなかった。
それでも、大学でほんの少しでも、“自由な教育”を感じてもらえたらいい。
そう思って先生は講義されているらしい。
もしその“自由な教育”の橋渡しの助けをわたしができるとしたら、それはすばらしいことだと思う。
先生が「われわれの受けてきた教育」と言及した、出身大学で受けた教育を、実はわたしは結構誇りに思っている。
自分の研究を行う上での根幹を成していると思っている。
まあ、世界的にすごい研究者をぼろぼろ輩出するようなすごいところではないのだけれど、“自由に学ぶ”ことは徹底されていた。
“自由に学ぶ”ための必要な基礎知識はしっかり叩き込まれたし、3回生からは本当に“自由に”自分の研究(といってもぐだぐだだったけど)をさせてもらえた。
今になって先生らの内情を聞いてみれば、自由にならないこともいっぱいあったそうだし、設備などはすごい研究室に比べたら全然整っていなかった(PCも足りてなかったし)けど、それでも“自由に学ぶ”ことに制限はなかった。
「自由の学風」っていうと某大が有名ですが、あっちは学生のフリーダムっぷりのほうに焦点あるもんなー。
わたしのいたところはちっさいところだけれど、それでも学問としての“自由”があった。
専門分野がぜんぜん違う同期どうしで、おさけのみながらいろんな議論したりとか、ぜんぜん違う講義にもぐりこんでいろんな議論したりとか。
卒論とか思い返してみても、本当にテーマがばらっばらで先生方には結構負担だったんじゃないかなーと思う。
ほとんど先生の専門分野なんて考えてなかったんじゃないかな。
でも、研究をするためのツール(統計とかプログラミング基礎とか論文の書き方とか論理的思考とか)は共通だし、そこんとこをフォローしてもらいつつも、学生も先生もありったけの知識と思考で議論し合えてたから、みんな研究テーマがばらばらでも気にしなかったんだと思う。
てゆーか、そこを出るまで、先生や先輩の専門分野を参考にして自分のテーマを決めるとか、先生や先輩にテーマを決めてもらうという考え自体がなかった。
まあ世の中を知らなかっただけなんだけど。
それはともかく、「研究」というものに初めて出会ったときの方法論が“自由な教育”であったことはわたしの幸せだと思う。
あの薫陶があったからこそ、研究の道に進もうと思えるわけだし。
(そういう意味では道を踏み外した要因だとも言える・・・orz)
たぶん先生も、わたしが思うように“自由な教育”を誇りに思われてていて、だからこそ自分が担当する学生に少しでもそれを感じて欲しいと思っていらっしゃるのだろう。
とはいえ、このご時世でそんな“自由な教育”が成立するのかどうかはちょっとわからん。
わたしのいたところも解体してるし。
今“自由”っていったら、完全放任みたいにとられかねないからなー。
“自由”にするためには、その前段階をきっちり仕込まれておかねば、「何をしていいかわからない」状態にしかならないのに。
そもそも学生の自由に任せる、という方法自体が「古い」のかもしれない。
下手したら、わたしたちの世代が“自由な教育”を享受できた最後の世代かもしれない(勿論、そうでないほうがよいことだと思うが)。
いやでも、ここで「わたしたち」が匙を投げたら、自分たちが誇りに思う“自由な教育”は失われてしまうかもしれない。
そんな危惧があるから、学生が講義中にネトゲしようと、先生は“自由な教育”をしようと手を尽くされるのだろう。
あーそんなこと考えたら下働きしっかりやらなあかん気になってしまうなー。時給安いのに。
金欠ばかりは理想ではどうしようにもねえ。
世知辛いですのう。
あーどうでもいいけどおまけにつられて某紅茶風ペットボトル飲料の果物フレーバー買って飲んでみた。
甘い甘すぎる。紅茶の味しねえ。
こういうときは、自分でいれた紅茶に飲料をまぜて香り&甘みづけに使う。
お砂糖と違って溶け残りがない、いわばガムシロップ的な何かだと思えばいいのですよ。
まあたまにはアレンジティーもありってことで。
気合いれたアレンジティーはちゃんとした果物スライスとか使うけどね。いやまあもったいないからアレンジティーしないのですよ。
だって果物は紅茶に入れる前に食べちゃうし。
あー葡萄とかもっと食べたいのにもうおみかんの季節だなあ。
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カテゴリ説明
もっさり:日々の雑感をもっさり。
がっつり:論文や研究関連をがっつり。
びっくり:科学ニュースでびっくり。
まったり:空想科学などでまったり。
ばっかり:デザイン系自己満足ばっかり。
ほっこり:お茶を嗜んでほっこり。
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びっくり:科学ニュースでびっくり。
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分野は視覚認知。視知覚にがて。
あと記憶全般。
カテゴリ (semanticsか?) とかも。
最近デコーディングが気になる。
でも基本なんでもこい。
好奇心は悪食。
好きな作家(敬称略)
川上弘美
小林秀雄
津原泰水
森茉莉
レイ・ブラッドベリ
イタロ・カルヴィーノ
グレッグ・イーガン
シオドア・スタージョン
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