めもめも ...〆(。_。)
認知心理学・認知神経科学とかいろいろなはなし。 あるいは科学と空想科学の狭間で微睡む。
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『アタック・ザ・ブロック』でつらつら述べた「階級」とその文化に関して、いわゆる“下層”階級においては特有の文化を持ちそれを肯定することで連帯感や充足を持とうとするけどそのせいで「階級」の世襲や固定につながってしまうという言説ってもともとどこで聞いた話だったかなあ、というのを思い返してみた。
あれだ学部生んときの講義だ。
アメリカの黒人居住区域(いわゆる「ハーレム」とか)の研究をしている先生の社会学の講義で聞いたんだわ。
講義で観た映画がどまんなかに象徴的だった。
貧しい(といっても家の中の調度品はわりと豪華で、映画の「つくりもの」感が出てしまったのか,家具つき住宅だったから可能だったのかは不明)黒人の母親が、裕福な親戚のところへ娘(主人公)を里子に出すという話なんだけど、母親は主人公の娘をそれまで黒人文化の中で育ててきていて、裕福な親戚は(裕福ゆえにか)白人文化に染まろうとしているので、里子にきた娘にも白人文化を真綿のようなやり方で強制していく、といった内容だったように思う(うろおぼえ)。
いわゆるアフロ=アメリカンなかんじの細いみつあみいっぱい作るような髪形してた娘に、ストレートパーマかけさせたりね。
「なるべく色白のほうがいい」とか。
まあ娘は反発するし、当時のあほなわたしは「おかあさんが編んでくれたみつあみ否定されるなんて娘かわいそう」みたいなあほなことしか考えられなかったわけですが。
「富を持つ」=「幸福」という図式にのっかるには、富を持たない文化を否定するという方法もしかたなかったのかもしれない。
他にも、黒人居住地域では“出産”は“結婚”とイコールではなく、“結婚”自体もたいそうもろいという話が講義であったな。
必然、シングルマザーが多くなるわけだ。
男性のほうでも、「(性的関係を持つことになった女性に対して)あんまり気に入る子じゃなければ避妊をちゃんとするけど、いい子だと思ったらしない」みたいなことを言ってたりして、日本にいるわたしたちの倫理観とはかけ離れていることに驚いた。
「子どもを生む」=「幸福」であって、「子どもに十分な教育を受けさせる」とかはそこにはカウントされてないのだ。
こういう文化を肯定しこういう文化で生きていくならば、教育が賃金に反映される国において「下層」は固定されてしまう。
今となっては日本でも当たり前のように言われる言説だけど、何年か前はそんな話(表向きには)影も形もなかった。
まあそれは、「現代日本には貧困は存在しない」ような幻想がそれなりに共有されていたせいだと思うけど。
だが、「下層」文化を否定することは正しいと果たして言えるのか?
貧しい階級の文化・出自を否定し、富を持つ集団に入り込もうとすることは一意的に「幸福」といえるのか?
このへんになってくると、哲学屋さんのめしのたね「解けない問い」になってくるのだなあ。
まあそんなかんじで、昔の講義で得た知識なんかがじわっと映画の見方から社会の見方やら人生観やらに影響してくるわけですね。
昨日でてた研究会で、「人文系の研究者は、研究者のすべての発言にはその人の今までの(研究といったパブリックな性格もそれ以外のプライベートなものも)経験・文化・バックグラウンドが現れる」という話が出たのだけども、実際わたしに置き換えても上記の通りなわけで。
そいえばわたしがアンチ・チョムスキアンなのは高校んときの先輩が「今どきチョムスキーを支持してるやつは阿呆」と放言して憚らなかったからだし、MRI実験するときなど建前はともかく実験者と被験者が非対等であることを意識するのはフーコーらへんの話で医療(対患者)の権力構造という講義を受けてたからだし、オカルト話につい興味が湧くのは現代の民俗学材料であると少ない民俗学知識でも判断できるからだし、○○○は××なんて思ってるのはその内幕をちらっとだけ見たからだし、今までに受け取ったありとあらゆる言説がわたしの思考を方向づけているのは明らか。
つまり、「役に立たない」学問なんかない。
理屈づけなくても、わたし自身が体感していたのだった。
専門領域外で受けた講義であっても、直接おかねがもうからない知識でも、今のわたしの思考を形作っている。
ちゃんと役に立っている。
これが「教養」というものではないか。
「教養」にならない学問なんてない。
ただし、これは「一般教養」ではない。
教科書的に学んだものではない。
研究者が自分の研究に関する講義を通じて学生に受け渡してくれたものだ。
研究する上で得たものを、学生にほんの少しおすそわけしてくれているのだ。
だから、非研究者では「教養」を与えることができない。
みんなが共有すべき「一般教養」なるものなんてほんのわずかじゃないかね。
「教養」として何を選ぶか、そこから既に「個」が始まっているんだし。
「一般教養」だけを大量に身につけようとするやつがいたらばかなんじゃないかと思う。
いやあどこの何という話でもありませんけど。
…しかし、こういうことを考えてしまうと、自分の非常勤の講義がこわくなるね。
わたしはちゃんと、学生に何かを渡すことができてる/できるのだろうか?
…とはいえ講義準備するときにはそんなことまでなかなか気が回らないというかなしい現実。
もっとえらい先生だと、学生に渡すものを意識しているのだろうか。
願わくば、そういう先生になりたいものです。
どうでもいい追記。
ウィキペディアみたら(参照)今のハーレムってそんな貧困地域じゃないのね。
古い知識でわけ知り顔に語ってすいませんでした。
やっぱ知識の更新もだいじだなあ。
あとも1こ映画ネタ追加すると、ぐぐる先生って「人生、宇宙、すべての答え」を算出してくれるだけでなく、「人生、宇宙、すべての答え」を2倍にしたり2乗にしたり定数として扱えるんですね!
ていうかぐぐる先生が電卓としてつかえることを知らなかったわ。
意外と知らないことって多いなあ。
もっと謙虚に貪欲に学ばねばならぬ。
あれだ学部生んときの講義だ。
アメリカの黒人居住区域(いわゆる「ハーレム」とか)の研究をしている先生の社会学の講義で聞いたんだわ。
講義で観た映画がどまんなかに象徴的だった。
貧しい(といっても家の中の調度品はわりと豪華で、映画の「つくりもの」感が出てしまったのか,家具つき住宅だったから可能だったのかは不明)黒人の母親が、裕福な親戚のところへ娘(主人公)を里子に出すという話なんだけど、母親は主人公の娘をそれまで黒人文化の中で育ててきていて、裕福な親戚は(裕福ゆえにか)白人文化に染まろうとしているので、里子にきた娘にも白人文化を真綿のようなやり方で強制していく、といった内容だったように思う(うろおぼえ)。
いわゆるアフロ=アメリカンなかんじの細いみつあみいっぱい作るような髪形してた娘に、ストレートパーマかけさせたりね。
「なるべく色白のほうがいい」とか。
まあ娘は反発するし、当時のあほなわたしは「おかあさんが編んでくれたみつあみ否定されるなんて娘かわいそう」みたいなあほなことしか考えられなかったわけですが。
「富を持つ」=「幸福」という図式にのっかるには、富を持たない文化を否定するという方法もしかたなかったのかもしれない。
他にも、黒人居住地域では“出産”は“結婚”とイコールではなく、“結婚”自体もたいそうもろいという話が講義であったな。
必然、シングルマザーが多くなるわけだ。
男性のほうでも、「(性的関係を持つことになった女性に対して)あんまり気に入る子じゃなければ避妊をちゃんとするけど、いい子だと思ったらしない」みたいなことを言ってたりして、日本にいるわたしたちの倫理観とはかけ離れていることに驚いた。
「子どもを生む」=「幸福」であって、「子どもに十分な教育を受けさせる」とかはそこにはカウントされてないのだ。
こういう文化を肯定しこういう文化で生きていくならば、教育が賃金に反映される国において「下層」は固定されてしまう。
今となっては日本でも当たり前のように言われる言説だけど、何年か前はそんな話(表向きには)影も形もなかった。
まあそれは、「現代日本には貧困は存在しない」ような幻想がそれなりに共有されていたせいだと思うけど。
だが、「下層」文化を否定することは正しいと果たして言えるのか?
貧しい階級の文化・出自を否定し、富を持つ集団に入り込もうとすることは一意的に「幸福」といえるのか?
このへんになってくると、哲学屋さんのめしのたね「解けない問い」になってくるのだなあ。
まあそんなかんじで、昔の講義で得た知識なんかがじわっと映画の見方から社会の見方やら人生観やらに影響してくるわけですね。
昨日でてた研究会で、「人文系の研究者は、研究者のすべての発言にはその人の今までの(研究といったパブリックな性格もそれ以外のプライベートなものも)経験・文化・バックグラウンドが現れる」という話が出たのだけども、実際わたしに置き換えても上記の通りなわけで。
そいえばわたしがアンチ・チョムスキアンなのは高校んときの先輩が「今どきチョムスキーを支持してるやつは阿呆」と放言して憚らなかったからだし、MRI実験するときなど建前はともかく実験者と被験者が非対等であることを意識するのはフーコーらへんの話で医療(対患者)の権力構造という講義を受けてたからだし、オカルト話につい興味が湧くのは現代の民俗学材料であると少ない民俗学知識でも判断できるからだし、○○○は××なんて思ってるのはその内幕をちらっとだけ見たからだし、今までに受け取ったありとあらゆる言説がわたしの思考を方向づけているのは明らか。
つまり、「役に立たない」学問なんかない。
理屈づけなくても、わたし自身が体感していたのだった。
専門領域外で受けた講義であっても、直接おかねがもうからない知識でも、今のわたしの思考を形作っている。
ちゃんと役に立っている。
これが「教養」というものではないか。
「教養」にならない学問なんてない。
ただし、これは「一般教養」ではない。
教科書的に学んだものではない。
研究者が自分の研究に関する講義を通じて学生に受け渡してくれたものだ。
研究する上で得たものを、学生にほんの少しおすそわけしてくれているのだ。
だから、非研究者では「教養」を与えることができない。
みんなが共有すべき「一般教養」なるものなんてほんのわずかじゃないかね。
「教養」として何を選ぶか、そこから既に「個」が始まっているんだし。
「一般教養」だけを大量に身につけようとするやつがいたらばかなんじゃないかと思う。
いやあどこの何という話でもありませんけど。
…しかし、こういうことを考えてしまうと、自分の非常勤の講義がこわくなるね。
わたしはちゃんと、学生に何かを渡すことができてる/できるのだろうか?
…とはいえ講義準備するときにはそんなことまでなかなか気が回らないというかなしい現実。
もっとえらい先生だと、学生に渡すものを意識しているのだろうか。
願わくば、そういう先生になりたいものです。
どうでもいい追記。
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古い知識でわけ知り顔に語ってすいませんでした。
やっぱ知識の更新もだいじだなあ。
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カテゴリ説明
もっさり:日々の雑感をもっさり。
がっつり:論文や研究関連をがっつり。
びっくり:科学ニュースでびっくり。
まったり:空想科学などでまったり。
ばっかり:デザイン系自己満足ばっかり。
ほっこり:お茶を嗜んでほっこり。
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分野は視覚認知。視知覚にがて。
あと記憶全般。
カテゴリ (semanticsか?) とかも。
最近デコーディングが気になる。
でも基本なんでもこい。
好奇心は悪食。
好きな作家(敬称略)
川上弘美
小林秀雄
津原泰水
森茉莉
レイ・ブラッドベリ
イタロ・カルヴィーノ
グレッグ・イーガン
シオドア・スタージョン
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